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長崎島原 銀杏(ギンナン)有馬の町おこし

2万人が見守った有馬の殉教

2万人が見守った有馬の殉教

有馬川殉教地

1613年10月7日。有馬川の中州では多くの人々が見守る中、3家族8人が火柱となりました。小さな子どもも含まれていましたがその信仰心は篤く、見守る多く
のキリシタンたちのさらなる信仰心に火をつけました。

1580年、領主有馬晴信がキリスト教洗礼を受けたことをきっかけにセミナリヨ、コレジオ、修練院、印刷所、信徒独自の活動組織・・・と次々に信仰の光がこの地を灯しました。有馬晴信の息子である直純が1612年にキリシタン迫害を始めてからは、多くのキリシタンたちが様々な肉体的弾圧の前に倒れましたが、それでもなお信仰の火は消えることがなかったのです。それほどまでに徹底した信仰教育に圧倒されるばかりです。

信仰に守られたこの地が、一転してキリシタン弾圧の地となったきっかけは、1609年の岡本大八事件でした。当時日野江藩は口之津港にて朱印船貿易を行っていました。そのときマカオでは有馬の船に乗っていた家臣・水夫たちがポルトガルの船とひと悶着、ゆえに48人が殺害されるという事件が起こりました。この事件に激怒した有馬晴信は長崎に寄航したこの船を撃沈し、これを発端に、領地争いに発展します。襲撃に加担した岡本大八は晴信と同じキリシタンであり、このことから晴信はすっかり大八を信用してしまいます。
晴信は襲撃の祝の宴を開き大八をねぎらいましたが、大八は実は裏切り者でした。晴信は大八にそそのかされ、かつて自分の領土であった旧有馬領を再び自分のものにしたいという思いに駆られます。

幕府への根回しといいつつ、晴信の財産を大八は少しずつむしりとり自分の懐へ入れました。やがて幕府へ事が露呈するととんでもない言い草で晴信を裏切ります。様々な謀反の下、晴信は切腹の刑に処されました。しかしながら晴信はキリシタンであったため切腹はせず、家臣に首をはねさせました。
晴信の息子であった直純はその後仏教に改宗し、キリシタン弾圧を行いましたが、あまりの無慈悲さゆえ最後は転封を願い、日向延岡藩に移りました。

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